大判例

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札幌高等裁判所 昭和54年(ネ)192号 判決

控訴人

藤井栄一

控訴人

藤井綾子

右両名訴訟代理人

塩谷千冬

鈴木悦郎

被控訴人

井戸垣強

被控訴人

沢口亮三

右両名訴訟代理人

山根喬

太田三夫

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

当裁判所も、控訴人らの本件請求はいずれも理由がなく、これを棄却すべきものと判断する。その理由は、次のとおり訂正するほか、原判決の理由欄の記載のとおりであるので、これを引用する。

一原判決の〈中略〉一二枚目裏二行目の「証拠はなく」から同四行目末尾までを「証拠はない。しかして、以上の事実のほか、本件においては、後記のとおり、被控訴人沢口は亡均のため間欠期における虫垂切除手術を行うことを希望する旨その親権者である控訴人らから表明されていたものと認められるのであるから、本件手術を昭和四九年一月五日に行なう旨決定した被控訴人沢口の判断は、右事情のもとで許容される適切な医療行為を選択した相当なものであつて、そこになんらの過失はない。」と訂正する。

二原判決の理由第三項〈中略〉を削除し、これに替えて、理由第三項として、次のとおり付加する。

「控訴人らは、本件手術は、被控訴人沢口においてその危険についての説明義務を尽くさなかつたものであるから、患者の自己決定権を侵害する違法なものであり、また、亡均の共同親権者である控訴人栄一においてはなんら本件手術に同意していなかつたのであるから、代諾権者の同意を欠く違法なものである旨主張する。

1  〈証拠〉によれば、

(一)  亡均は、控訴人ら夫婦の共同親権に服していたものであるところ、前認定のとおり、急性虫垂炎及びその後の腹痛等の既応症を有していたことから、控訴人らは、亡均の在学していた中学校の先生から、亡均に対し虫垂切除手術を受けさせた方がよい旨勧められていた。

(二)  そこで控訴人綾子は、控訴人栄一とも相談のうえ、昭和四八年一二月二七日、亡均を伴つて被控訴人ら方博愛病院を訪れ、亡均の従前の病症からみて学校の冬期休暇中に虫垂切除手術を受けさせたい旨申し出て、被控訴人沢口の診断を受けさせた結果、右被控訴人から虫垂切除手術を行うことが望ましい旨の診断を得て、右手術を翌年一月四日に受けさせることとして帰宅し、右結果を控訴人栄一に報告した。

(三)  しかして、控訴人綾子は、昭和四九年一月五日、亡均に右手術を受けさせるべく、入院の準備を整えたうえ、亡均を伴つて再度被控訴人ら方博愛病院を訪れ、本件手術を受けさせるに至つたものであり、控訴人栄一は、控訴人綾子が右当日亡均を博愛病院に連れて行くことを了承していた。

以上の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。しかして、右認定の事実によれば、控訴人栄一は、冬期休暇中の手術を希望して博愛病院における診断を受けさせるについてはもとより、同病院において右手術を受けさせるについても、すべてこれを了承のうえ、その旨を医師に伝達することを控訴人綾子に委ねていたものであり、控訴人綾子からその旨被控訴人沢口に伝えられたものであると推認することができ、これに反する控訴人藤井栄一の当審における供述はとうてい措信できない。してみれば、本件手術は亡均の親権者の承諾のもとに行われたものであるから、それが代諾権者の同意を欠く違法なものである旨の控訴人らの主張は失当である。

2  〈証拠〉によれば、被控訴人沢口は、本件手術の施行を決定するに際し、控訴人綾子に対し、亡均の虫垂炎は再発しやすいから虫垂切除手術をした方がよく、右手術は腰椎麻酔によつて行われる旨を説明したが、右麻酔に伴う死亡事故発生の可能性等の右手術の危険性についてはなんら特段の説明をしなかつたとの事実を認めることができ、右認定に反する証拠はない。

3  〈証拠〉、原審における鑑定人林四郎及び同高橋長雄による各鑑定の結果によれば、

(一)  本件虫垂切除手術は、前記のとおり、虫垂炎の間欠期にその再発を予防するために行われたものであつて、亡均の生命、身体にさし迫つた危険を避けるためその実施の時機を争うという緊急を要する手術ではなかつたものである。

(二)  虫垂切除手術を行うに当たつては、腰椎麻酔の方法によるのが通例であるところ、右麻酔の操作を含め右手術の施行は比較的容易に管理することができ、大規模な総合病院によらず、被控訴人ら方博愛病院におけると同程度の施設及び人員を擁する一般の医院において、日常的にその多くが実施されているものである。

(三)  しかしながら、虫垂切除手術も、生体に対する侵襲として、たとえなんらの過誤もなく実施された場合であつても、これに伴い死亡事故が発生する可能性は否定し得ず、特に、後記六に認定のとおり、麻酔操作が適切に行われても、患者が胸腺リンパ体質又は循環虚弱体質等の特異体質を有するときは、腰椎麻酔が誘因となつて急性循環不全が発生し、死亡するに至ることが起こり得るのであつて、かかる麻酔による死亡事故の発生の可能性は極めて微々たるものではあるけれども、本件手術の施行を決定した際、被控訴人沢口においては、右可能性が存することの認識を有していたものである。

(四)  ところで、患者が具体的に右のような特異体質を有しているものか否かについて、事前にこれを覚知することは、現在の医学の水準をもつては実際問題として不可能であり、死亡事故が発生した後に解剖を行つてはじめて特異体質であつたものと推認できることがあるに過ぎない。

(五)  しかして、いつたん右のようにして急性循環不全が発生した場合には、専門の麻酔医を擁する大病院においても、後記七に認定のとおり本件手術に際して行われた応急措置以上の有効な救命措置を講じることは、現実に不可能である。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。さらに、虫垂切除手術は比較的簡易に行われている手術ではあるが、これとても絶対に安全なものではなく、その発生の機序はともかく、まれに死亡事故も起こる可能性をはらんだものである旨の認識が一般社会人の常識に属していることは、公知の事実というべきである。そして、被控訴人沢口が控訴人らにおいてかかる常識を備えているものと考えたことは弁論の全趣旨から明らかであり、被控訴人沢口がそう考えたことが相当でないとするような事情は認められない。

4  以上認定の事実をもとに、被控訴人沢口において控訴人らに対し本件手術に伴う死亡事故発生の危険性について説明をなさなかつたことが、本件手術の施行を違法ならしめるか否かにつき検討する。

医師が患者に対し医学上適切な判断に基づいた診療行為を施す場合であつても、本件手術のように、その選択に係る診療行為が患者を特別の負担ないし危険にさらすものであるときは、これが患者において重大な利益を有するその生命、身体に対する侵襲である一面を有することに鑑み、応急の場合その他特段の事情のある場合を除き、当該診療行為についての患者の個別の承諾を要するものと解するのが相当である。しかして、患者において当該診療行為のもつ積極及び消極両面の意義を少なくともその大綱において理解したうえでなされたものでない限り、その承諾は有効なものと解することができないから、診療行為の有するすぐれて専門的性格に照らせば、医師が現に有し又は有すべき専門的知識に基づいて認識し得べき当該診療行為の患者に対して有する積極、消極両面の大綱的意義については、これが一般社会人の常識のうちに含まれていないものである限り、あらかじめ医師において患者にこれを説明のうえその承諾を求めるのでなければ、有効な承諾を得ることができなくなるものというべきである。かかる意味において、医師にはその行おうとする診療行為に関し患者に対し一定の説明をなす義務が認められるところ、これを診療行為のもつ患者の生命に対する危険性の側面についてみるならば、これが患者の最も重大な利害に係わるものであることに照らし、生命の危険を賭しても治療効果を期待して当該診療行為を受けるか否か、また、これを受けるとしてもいかなる医療施設でこれを受けるかにつき選択する自由が患者に保証されるよう、可能な限り右危険性についての説明がなされることが望ましいことはいうまでもない。しかして、死亡事故発生の可能性が相当の確率をもつて見込まれる治療行為が問題となる場合や、当該治療行為に伴う死亡事故発生の確率は極めてまれなものであつても、万一これに連なる緊急事態が発生したときに、当該医療施設においては現在の医学の水準からみて右事態に適切に対処する設備、人員を擁していないような場合には、右の危険性について説明をなすことは、医師の右説明義務の範囲に属するものというべきである。しかしながら、本件虫垂切除手術のように、死亡事故発生の可能性は極めてまれなものであつて、かかる危険の存在にもかかわらず、前記のとおり、虫垂炎の間欠期における予防的切除が一般に是認された治療方法となつていて、日常的に一般の医院でその多くが行われている治療行為が問題となつている場合に、これを適切に施行できるとともに、万一死亡事故に連なる緊急事態が発生しても、これに適切に対処し得る設備と人員を擁した医療施設(被控訴人ら方博愛病院がかかる施設であるといい得ることは、前認定の事実よりして明らかである。)においてこれを施行しようとするときは、医師としては、虫垂切除手術とても絶対に安全なものとはいい得ない旨の一般社会人の常識を患者において備えていると考えることを相当としない事情があるなど特段の事情が認められない限り、あえて右手術に伴う生命に対する極めてまれな危険についてまで特に説明をなす義務を負担するものではないというべきである。けだし、右のような場合には、あえて医師の説明により注意を喚起するまでもなく、患者はその自由意思に従つて常識的に想起し得る危険性との関連で右手術を受けるか否かを決定することができるとともに、緊急な事態がたとえ発生しても、現在の医学の水準のもとで期待し得る応急の救命措置を一般の場合と同様に享受し得るのであつて、そこになんら患者の保護において欠けるところはないものと解されるからである。もとより、それにもかかわらず、いつたん不幸にして死亡事故の発生をみた場合には、遺族らにおいて、他の最新設備を擁する大規模な病院において手術を行つていたならば異なる結果があつたのではないかとの悔悟の念を抱くであろうことは容易に推察でき、心情において十分理解し得るものがあるけれども、かかる心理的な負担が残存し得るからといつて、これをもつてはいまだ医師に説明義務を課する根拠とはなり得ないものというべきである。

してみれば、被控訴人沢口が本件手術に伴う生命の危険について控訴人らに対し説明をなす義務を負つていたものとは認めることができず、したがつて、右義務の存することを前提として本件手術の違法ないし過失をいう控訴人らの主張は失当である。」

三〈省略〉

(輪湖公寛 矢崎秀一 八田秀夫)

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